ヒカルが入ったラーメン屋に、冴えない格好をした男が競馬新聞を読んでいた。男はヒカルが読んでた「週刊碁」の「倉田七段」の記事をみて、ヒカルに話かけてきた。男は倉田が棋士であったことを初めて知ったのだ。男は8年前、教育実習で行った中学校に倉田はいたのだ。
8年前…男は教室の後ろで授業をみながらこっそり競馬新聞をチェックしていた。ふと丸々とした少年が授業中にイヤホンを取り出して耳につけようとしたのに気がついた。音楽でも聴いているのかと後で注意しようと思って少年の側に近づくと、競馬新聞をこっそり広げてレースを聞いていることに気がつく。競馬新聞には少年の予想か、男が予想してない馬に印がついていた。
放課後、男は急ぐ少年―倉田厚を捕まえて話を聞こうとしたら、倉田は馬券売り場(ウインズ)に行くという。
そしてウインズ。そこは競馬場ではなく、レースを当てようとする大人達の新券勝負の場なのだ。倉田は第4レースを見事に当てていた。第五レースは外したが、第六レースも見事に一着を当てる。中学生である倉田は馬券を買えないが、倉田は純粋に一着を当てるのを楽しんでいたのだ。そのため多くの競馬のデータを集め、それを分析する。目標は12レース全部敵中させることだ。この日の的中率が4/12の倉田を見ながら、男の心は打算で満ちていた。
翌日曜日。ウインズで男は倉田をみつけた。倉田はここ半年は毎日週末はウインズに通っているという。倉田の今までで最高の的中率は6/12だという話を聞いて、馬券を買おうと思ったことはないのかと男は聞いた。もちろん中学生である倉田は馬券は買えないが、一度500円を2枚そのへんのオジさんに頼んで買ったことはあるらしい。でもお金をかけるとダメなのか、予想が外れてしまうので、予想を当てる方が楽しい倉田は馬券を買うことに興味をなくした。その話を聞いて、男は倉田のことをガキだと思った。大人であれば大金をかけて予想が当れば大もうけができる。50万円を5倍の250万にすることも夢ではない。男は倉田の予想をこっそりみて、倉田の予想どおりの馬券を買った。ただしまだマグレかもしれないと思い、千円程度に押さえて。最初の3レースは外れたが、4レース目はオッズが8.2の予想を見事に当てた。そしてその後も男は倉田の予想にかけつづけた。この日のレース中、倉田はすでに4レースを当てている。その予想にのっかった男もかなり儲けていた。すでに男は倉田の予想はまぐれではなく、倉田についていけば大もうけも夢ではないと思っていた。そして最終第12レース。倉田はレース展開を想像し、6番コノハズクに丸を付けた。男はその予想をみて馬券を買いにいく。6番単勝のオッズは6.2、手元にある5万円をかけて当れば車のローンが全部返せる… しかし倉田の予想はもう4レース当ってるからそろそろ外れるだろうと千円だけかけるつもりで馬券売り場に行った。そのとき、6番に350万かけたヤツがいるという噂が流れ、何か裏情報でもあるのか?とざわめき、あわてて6番を買おうとする人たちで賑わった。男はその雰囲気に流されるかのように万札を財布から出そうとしたが、倉田に止められる。コノハズクの単勝にはアヤがついたと、倉田の勝負勘が告げていたのだ。そして最終レース、途中まで倉田の予想通りの展開となる。しかしベテラン騎手のミスでコノハズクは勝てなかった。情報がもっとあれば最終レースも当てることができたのにという倉田の呟きを聞きながら、男は倉田の勝負勘は本物だと確信していた。
次の土曜日、教育実習は終わった男は、倉田の予想にかけて大もうけするためにサラ金から100万円借りてきてウインズにきた。しかし、いつもいるはずの倉田はいない。そしてもう倉田の姿を馬券売り場でみることはなかった。思い余った男は学校に押しかけて倉田に話を聞いたが、倉田は始めたばかりの囲碁がおもしろくて競馬をやめたらしい。
倉田の囲碁を始めたきっかけをヒカルは知りたがったが、男は腹が立つので聞かなかったのだった。倉田が囲碁にさえ会わなければ、男は今頃は大金持ちだったのに…
その頃倉田は対局を行なっていた。「答えを出す最後の決め手は勝負勘だ」
本当に久しぶりの「ヒカルの碁」。この一か月近く、本当に長く感じられました。
さて、今回の作中時間は、ヒカルの持ってた「週刊碁」だと2002年…148局ラストが2001年10月なので、あれより後の話になりますね。倉田さん、いつの間にか七段に。おめでとうごさいます。
それにしてもこの番外編って、ダメ大人の登場率がかなり高いような気がしますが、今回のこの男は本当にダメダメですな。楽して、人の力を利用して儲けようと考えているからこそ、いい年しても冴えない状態のままで。そういうのはダメだよ、というほったさんからのメッセージなのかなあ、とも思いますが…
実は「人の力を利用して楽に金儲け」というのはコミックス1巻でのヒカルもそういう考えているわけですが、やがてヒカルは自分に向ってはいるものの自分自身を無視している「情熱」に寂しさを覚え、自分自身の足で歩きたいと思うようになります。また、特に初期のヒカルは意図的に「礼儀知らずで無神経」に描かれていた部分もありました。それが佐為にさとされたり、友達を傷つけたり、本当に大事なものをなくしたりしてゆく過程でヒカルは成長して「大人」になってゆく。…それとお金の話に妙に細かいこともあわせて、「ヒカルの碁」が「教育的だなあ」と感じることもあるんですよ。ほったさんが自分の子供と同世代のジャンプ読者にむけての、「母親」としてのメッセージなのかもなあ、と私は考えています。
そういえばどこかの記事かなにかで、ほったさんは囲碁にハマる前は麻雀だったか競馬だったかが好きだったという話を読んだ覚えがあります。「賭け碁」の話が多いこともそうですが、ほったさんって結構ギャンブラーなのかも…
今回の話は私にとって「おもしろい」のはおもしろかったんですが、やはり本編と比べると物足りないものがありますねぇ… たぶんそれは番外編のほとんどが「なくてもかまわない話」だからかもしれません。
番外編というのは「キャラクターを使ってのお遊び」だったり「本編の裏設定」だったり「キャラクターの意外な一面」だったりと様々ですが、「ヒカルの碁」の場合は本編がムダなエピソードが一切ない、密度の高いものですからつい番外編にもそういうのを期待してしまうんですよね。アキラ編や三谷編は本編の裏側の話ではありますが、あれは本編をじっくりと読みこめば十分読み取れるだけの情報しかなかったですから。ここまで「なくてもかまわないエピソード」ばかりが続くのは、新しい情報を本編でなく番外編で付加することをほったさんが無意識に嫌がってるんじゃないのだろうか?とつい邪推してしまいます。
大好きな本編が終わったあとに番外編が出て喜んだものの、自分があれこれ想像した物語上の空白を作者が無造作に上から塗り固めちゃってがっかりした…物語好きであれば、一度はこういう体験をしたことがあるんじゃないかと思います。作者が書くのが「ホンモノ」だからこそ、自分の思いが「ウソ」にされてしまう悲しみ。それでも気持ち的にオフィシャル設定には逆らえないのです。
本編を作り上げたのは作者ですが、物語の空白部分は読者のものである…とも言えます。その読者の領域にズカズカと足を踏み入れる作家さんもいますが、ほったさんはそれができないタイプなのかも。昔自分が読者としてそういう悲しみを感じたことがあるとかで… (完全に邪推モードに入ってます…)
ほったさんは決定的シーンをわざと書かずに後日さらりと知らせる方法をとることがありますが、これは決定的シーンをかけないわけではなく(実際にいくつかのクライマックスシーンではちゃんと正面から書いていますし)、空白部分を読者の想像に任せて余韻を持たせるように計算づくでやってるんじゃないかという気がするんです。だからこそ今回の番外編が「薄い」のはこういう理由からかなあとつい考えてしまうんですが。考えすぎかなあ。
今回の収穫は、最後にでてくる倉田さんの対局相手。彼は本編第143局でひとコマだけでてきた、「本因坊戦リーグ出場者」のひとり。軍人風の外見が好みだったので目をつけてたんですが、今回思いもかけず見れたのが嬉しかったです。…ということは、この対局は本因坊リーグなのかな?
次回は佐為の話で、センターカラー46ページ。佐為の話であれば、私としては虎次郎と佐為の話を、虎次郎視点で読みたいものですが、虎次郎と佐為の話は本編の核心部分ですから、本編でこれ以上語られることはないでしょうし… 佐為がずっと「虎次郎」と幼名で呼んでいたこと、「優しい人でした」という佐為の言葉、そして臨終の際に虎次郎は佐為に「すまない」と佐為に謝ったこと… たぶんこれで十分なのです。これ以上のことは、それぞれが想像するのが一番なのかもしれません。
虎次郎といえば、小説版の「ヒカルの碁」に「亡くなる直前の秀策の手を握り締める佐為(でも触れ合うことはできません)」という小畑さん描きおろしの美しくて切ないイラストがありますので、みてない方はチェックしてみてください。
虎次郎の話がダメだったら、ヒカルと佐為のなんでもないほのぼのとした1日の話とか読んでみたいです。一緒に遊んで、ケンカして、仲直りして、みたいな。もう本編ではそういうのは見れないのですから…
佐為編で番外編は終わりだそうですが、本編はいつからスタートするんでしょうか? 「春」というからには5月中には始まってほしいものですが、それじゃ小畑先生全く休む暇がないし… でも続きを早く読みたいんですよねぇ。
コミックス+ジャンプ全員プレゼントの扇子が届きました。佐為のイラストはキレイだし、根付のヒカルはかわいくて満足でした。