視線
 その日、外回りをしていた私は、時間があまってしまい、すぐに会社に戻る気になれないまま、ふらふらとウィンドウショッピングをしていました。あまりうろうろしていても仕方がないので、どこかでコーヒーでも飲もうかと思い、足を止めたときでした。ふと、誰かに見つめられているような気がして振り向きました。そこには、一枚の油絵がかざってありました。
 私はその絵にひかれました。その絵というよりも、その絵に描かれている男の人に引かれたというほうが正しいのかもしれません。
 その絵には二人の人物が描かれていました。男と女で、腰から上の裸体の人物画だったのです。不思議なアングルで、男のほうが横向きで、女のほうは、後ろを向いて男の人に影のように寄り添っているのです。最初は、その男の人の端正な彫の深い横顔と、少し筋肉質の均整のとれた身体つきがやけに印象的で、人物が二人描かれていることにさえ、気づかなかったほどです。うっすらと汗をかいているようなその肌の描かれ方は、その男の人が絵の中で息づいているような錯覚さえ与えていました。
 「こんなところに画廊があったんだ。」その絵を描いた人の個展をやっているらしいのです。私は他の絵も観たくなり、中に入りました。
 
 受付には、記帳のノートがおいてあるだけで、誰もいませんでした。   
 また、誰かに見つめられてるような気がして振り向くと、そこには、さっきの絵と同じモデルの絵がかざってありました。その絵は、最初の絵と似たようなアングルで描かれているのですが、男の人が横顔でなく正面を向いていて、女の人は、確実に影のように描かれていました。鋭い目が印象的で、私はその視線から逃れられず、しばらくの間、その絵の前から動くことができませんでした。その絵にひかれながらも私は、何か恐怖のようなものさえ感じ始めていました。
 その上、その絵だけじゃなく、全部の絵が私を見ているような気がし始めたのです。それもなめるような視線で・・・。肖像画ばかりが展示されているせいなのでしょうか。その画廊からはやく出たいと思いながらも、全部の絵を観たい、何故こんなにひかれるのか確認したいという気持ちがあって、私は、奥に進んで行きました。
 一番奥には、『未完成』と書かれた等身大ぐらいの絵がかざってありました。それには、ぼやっとした人物の影のようなものが描かれていました。とても不思議な絵で、凝っと観ていると吸い込まれそうな、自分がその絵に入っているような錯覚に陥ってしまうのです。私は、立ちすくんでいました。そのとき、さっきと同じで、それよりもはっきりとした視線を感じ、私は、びくっとして振り向きました。
 そこには、男の人がたっていました。歳はとっていますが、あの絵のモデルと同じ目をしていました。「驚かせてしまいましたね。」その年老いた男性は、笑いながら話し掛けてきました。「いや、吃驚したのは、私のほうなんですよ。あなたがそこに立っているのを見て、その絵が完成したのかと思ったのですから。」
 「あなたが、この絵を描いた方ですか。」私は、やっとの思いで口を開きました。「そうかも知れません。私は、この絵の影でしたから。」その年老いた男性は不思議な答えを残し、消えてしまいました。「えっ・・・」私は、その姿を探しましたが、どこにもいません。さっきの絵に目をやると、その影のように描かれているものに目が・・・・・。私は、その場から逃げ出しました。
 
 その夜から、私は毎晩同じ夢を見るようになりました。夢のなかで私は、あの年老いた男性の絵のモデルをしているのです。私はあの視線の中に素肌をさらし、ポーズをとっているのです。「あなたh、私の絵の影にふさわしい。私はあなたが欲しい。」
そう言いながら、あの絵の影に姿をかえ、襲いかかってくるのです。恐怖の中で目をさますと、闇の中にあの視線を感じ、夢と現実の区別さえつかなくなり、それからというもの、私は、いつも誰かに見られているような感覚から逃れられなくなってしまいました。シャワーを浴びていたり、着替えているときなどは、その視線をはっきり感じるのです。あの画像の中で感じたなめられるような視線を・・・。そのうち、その視線の中に取り込まれてしまうのではないかという、恐怖さえ感じはじめていました。自分の影にまでおびえてしまうのです。
 
 私は、その視線が何なのか知りたくて、もう一度あの画廊に行ってみました。個展は終わっていましたが、あの最後に観た絵だけが残されていました。ほっとして、その前に立った私は、その絵に自分が描かれているこに気づきました。裸体の私が、あの影に包み込まれているのです。「待っていましたよ。」あの視線とともに、絵のなかから声が響きました。