町の集落から少し離れたところにある高台に、石造りの家が一軒建っていた。表の扉には、『祓い屋』と書かれてあって、取っ手に『準備中』の札が掛かっている。 もっと大きな町に行けば、石造りの建物もそう珍しいものでも無いが、このあたりの家は木造が多く、石造りのこの家は異彩を放っていた。異国の建物を模して建造されたのだそうだ。 この家にも、ちゃんと人が住んでいる。住人は二人。いや正確には一人。 「起きてください。朝ですよ」 長い金髪を腰まで垂らした男が、寝台で寝ている家主に声を掛ける。顔だけ見ると女性のようだが、背がとても高い。西洋の人種のようだった。この国にも大勢来ていると聞くが、この町ではこの男以外見かけない。 「もうちょっと寝かせて」 布団に包まって、家主はわざとらしく男から顔を背けた。 「駄目ですよ。もうお店を開ける時間ですから。とっくに朝の鐘は鳴っています」 朝の鐘は午前九時に鳴る。他に、明朝に鳴る夜明けの鐘、正午の昼の鐘などがあって、町の人々はそれを基準にして生活していた。 「お店開けといて。どうせ客なんか来ないんだし」 「今日は来ますよ。早くしないと、逃してしまうかもしれませんよ。さあ、起きて」 金髪の男はそう言うと、寝ている主人の頬に口付けした。 「うわぁっ」 主人は叫んで飛び起きた。 「目覚めのキスです。西洋の慣わしだそうですよ」 笑顔で説明する金髪の男に、家の主人は少し怒った顔をして見せた。 「せっかく寝ていたのに、目が覚めてしまったじゃないか」 「では、明日もこれで起こしましょう」 本気で怒っているのでないことが分かっているのか、満面の笑みを浮かべたまま、男は言った。 顔を洗って服を着替え、店を開ける為の準備を始める。この家の主人は朝起きるのは苦手だが、それ以外のことなら何でもテキパキこなす。 そんな家主の姿を頼もしそうに男は眺めていたが、家に近付く気配を感じて言った。 「誰か来ます」 そう言った少し後に、店の扉を叩く音が聞こえてきた。 家主はめんどくさそうに、扉を開けた。 「すいません。まだ準備中なんで」 そう言って、早くから来てくれた客(と思われる)を追い返そうとする。 「ああ、待ってくださ……」 言い掛けたのを遮るように、扉は音を立てて閉まった。 「本当にツいてないなあ」 外から客の独り言が聞こえてくる。 店内の棚に新しく並べる品を確認している家主に向かって、金髪の男は言った。 「妙な気配を纏っていますね。逃がさない方が良いかもしれません」 「金になるってこと?」 歯に布着せぬ主人の素直な言葉に、男は肩をすくめて見せた。 「さあ? そこまでは。私は予言者ではありませんから」 「そりゃそうだ」 家主はさっき閉じた扉をもう一度開き、客を招き入れた。 |
黒い髪を肩より少し下で、ゆったりと一つに結んで垂らしている女性――この家の主人だ――は十七歳。名を紅緋[ベニヒ]と言う。都で祓い屋を代々営んでいる家系に生まれたが、十三歳の時事故で家族を失ってからは、この田舎の町に引っ越して家を借り、そこで細々と祓い屋を続けている。 客に、西洋風の茶碗に紅茶を注いで出している金髪の男は、黄蘗[キハダ]という名だ。名前だけは倭那の国風なのだが、見た目は金髪碧眼の異国人。もっとも、キハダは人間ではない。もっと霊的なもの。本人は精霊神だと言っている。ベニヒとは途中で引き離されたこともあったが、かれこれ十年来の付き合いになる。 そして、物珍しそうな顔で、茶碗とキハダを眺めているのが、今回の依頼人の男だ。背を丸めている為、気弱そうに見える。 「わたしは桐[キリ]の群青[グンジョウ]と申します。先日、父が亡くなりまして、家業を継いでこういった物を売り歩いております」 グンジョウはそう言って、背中に担いだ荷物から小さな銀色の鈴を取り出した。 「お近づきの印に、どうぞ」 「いらない。例え友人であっても、怪しげな物は受け取るなと、祖父の遺言で」 ベニヒがきっぱり断ると、グンジョウは残念そうな顔をして、鈴を鞄に戻した。 「その怪しげなものを売ってるくせに」 キハダが小声で言ったのを、ベニヒは睨みつけておいてから、グンジョウに向き直った。 「それで。何か悩みがあってここに来たのだろ?」 祓い屋とは、人や物に取り憑いた悪霊や悪鬼を退ける仕事をしている人の事だ。 信じていない人間も多いが、この世には確かに霊や鬼が居て、生きている人間に害なすことが多々あるのだ。 「はい。実はわたし、運に見放されたというか、本当にツいてないんです。何をしても上手く行かないというか」 伏目がちに、男は時折頭を掻きながら、現状を説明した。 |
ツいてないと思うようになったのは、数年前からだという。それまではごく普通に暮らしていた。あまり時期ははっきりしないのだが、いつの頃からか、自分が他の人に比べてツいていないと感じるようになったのだそうだ。 具体的な出来事を言ってもらうと、希望の学校への願書が郵便事故で届かず結局間に合わなかった、だとか、好きな相手に告白したが相手はその日の午前中に別な男と付き合い始めていた、だとか、何もないところで躓く、とか。特に父親が亡くなってから酷くなったそうだ。まあ、確かに運が悪いと言われればそのような気もするが、今一、他人と比べて不運なのかまでは伝わってこなかった。 「それだけじゃあね。単に運が悪いの一言で済んじゃうよ」 ベニヒが言うと、グンジョウは頭を掻いて、それからポンと手を打った。 「そうだ。具体的な例と言われてもすぐには思いつかないんで、実際に僕と一緒に外を歩いてみてください。すぐに分かると思います」 これぞ妙案、とでも言わんばかりに目を輝かせてグンジョウが言った。 三人で店から外に出る。屋根に止まっていた鳥が、扉が開く音に驚いたのか羽ばたいて行った。鳥の糞が、グンジョウめがけて落ちてくる。 「こんな感じです」 グンジョウは布切れで肩に落ちた糞を拭きながら言った。 高台から町へ続く道を歩く。喋っていると口に小さな虫が目に入ったとグンジョウが言った。痛がるので、キハダが覗き込んでみると、確かに羽の生えた小さな虫、蚊だろうか、が下の瞼に乗っている。 キハダがグンジョウの瞳に息を吹きかけると、涙がどんどん出てきて、虫を洗い流した。 「うわ。なんですか、これ」 涙を拭きながら、グンジョウが言う。 「涙です」 キハダが答える。 多分、グンジョウが聞きたいのはそんなことじゃないとベニヒは思ったが、説明すると長くなりそうだったので、口には出さなかった。 それよりも、涙を拭いている手拭が、さっき鳥の糞を拭いたのと同じ物のようだが、果たしてそれで良いのだろうか。そんな事を考えていると、グンジョウが叫んだ。 「ああっ! これ鳥の糞を拭いたやつだ。うぅ。なんてツいてないんだ」 それはツいてるツいてないではなく、単なる不注意だと思う。確かに、元から鳥の糞が落ちてこなければ手拭は綺麗だったのだろうが、そこまで運のせいにされると運勢の神さまも困るに違いない。 そのまま町まで降りた。 畑へ連れて行く途中の牛がいきなり暴れ出して、そこを通りかかったグンジョウが蹴られる。 「ふむ。確かに多少ツいてないようにも思う」 その様子を見ながら、ベニヒが言った。 キハダは牛を宥めている。牛の持ち主の農民は、キハダに何度も礼を言ってから去って行った。蹴られたグンジョウは忘れられているようだ。 途中の屋台で、焼いた茸を買って食べた。なぜか、グンジョウが食べた分だけ毒茸だった。キハダが解毒すると、屋台の主人はキハダを褒め称えた。 「妙な気分です」 また歩き出してから、キハダが言う。 「何が?」 「こんなに町の人に感謝されたのは初めてのように思います」 キハダは見た目に、町の他の人間とは全く異なるから、怖がられたり奇異の目で見られたりすることが多い。仮に何か人の為になることをしたとしても、感謝の言葉を直接聞くことはなかった。それが、今日はもう二回も。 「ふむ」 ベニヒは腕を組んで、考える仕種をした。 「単に、町の人がお前に慣れてきたってことじゃないかな」 ベニヒは答えた。 |
一旦店に帰って、ベニヒはグンジョウに告げた。 「気のせいだ」 グンジョウは落胆している様子を隠そうともしない。 「お前がいつも後ろ向きにしか考えていないから、悪いことばかり起きるように感じるんじゃないか? 今日様子を見た限りだと、呪いだとか憑き物とかじゃあなさそうだし」 ベニヒが説明する。 憑き物の場合、悪さをするような意思が強いものはベニヒの目に見える。だが、そのような物はグンジョウの周囲には憑いていない。 呪いにしては、発生した事象に一貫性が無い。呪いは生きた人間が、別の人間に悪意を向けた時に発生する。だから、例えば「禿げろ!」とか、一つの結果へ向かって事象が起こるのが普通だ。運が悪くなればいいのに、などという抽象的な悪意しか思い浮かばないようでは、呪いの効果も発揮されないだろう。 「そんな。わたしもちゃんと前向きに考えているんですよ。今日は駄目でも、明日は良い日だろうって、毎日思ってます」 グンジョウが訴えるように言う。 毎日『明日は良い日』じゃ、いつまで経っても『今日は良い日』にならないだろうに。 向かい合って座っていたベニヒは、腕を組むと、後ろに立っているキハダに目を向けた。 「どう思う」 「運の良し悪しは、なかなか分からないものです。同じ事象が起きても、考え方次第で運が良いと感じることもあれば、悪いと感じることもある。他人が判断するのは非常に難しい」 ベニヒは相槌を打ちながら、キハダの言葉を聞いている。グンジョウも流されやすい性格なのだろう。しっかり相槌を打っている。 「じゃ、一応運勢をよくするお札出しとくから、それを部屋の南西の壁に貼っておいて」 ベニヒは言って、店の奥の机の引き出しから、札を二枚取り出した。 「南西は箪笥なんです」 グンジョウが言う。 「じゃ、箪笥の中の壁でいいから。はいこれ。糊付けに失敗したら、こっちの貼ってね。これ二枚で五千両ね。あと診察料に一万五千両、併せて二万両になります。あ、これ三枚目からは別途料金発生しますので。返品は糊付けしていない物のみ受け付けます」 ベニヒはグンジョウに札を渡しながら、料金の請求に入った。 普通の客なら、この勢いに押されて、そのまま料金を支払って帰ってしまう。しかしグンジョウは引き下がらなかった。 「あなた詐欺ですか。何もしてくれてないじゃないですか! こんな気休めの札に五千両? ふざけないで下さい!」 顔を真っ赤にして、グンジョウが騒ぎ立てた。 今までと態度が全く違うのに、ベニヒもキハダも驚いて半歩下がった。 「祓い屋っていうのは、人を幸せにする為の職業でしょう。それなのに不運なのは仕方ないとか、そんなこと言うんですか? そもそも居るか居ないか分からない悪霊とかを祓うって言ってますけど、実際には何もしてないんじゃ……」 グンジョウの言葉が途中で止まった。 さっきから目を丸くしている二人を見て、突然、グンジョウは頭を下げた。 「申し訳ないっ。あなた方の仕事を莫迦にするつもりは全く無かったんです。すいません。ちょっと最近、祈祷や占いに色々騙されてしまって」 そう言って、何度も頭を下げる。 「えぇっ。ああ、まあそういう悪徳業者も最近増えてるようで。オホホ」 わざとらしい笑い声を上げて、ベニヒが言った。 ベニヒは悪徳業者ではない。断じて違う。本人はそう言うが、売り込みが少々強引なのは間違いないから、頭の痛いことだろう。 「グンジョウが売っているという身代わり鈴、それについて調べてこようかな」 独り言のように言って、ベニヒは店の奥の扉を開けて入って行った。 店の後ろ半分は、書庫になっている。医学書、歴史書、民俗学などなど、様々な本が納められているのだ。 ベニヒが逃げるように書庫に行ってしまったので、残ったキハダは、意気消沈しているグンジョウに、菓子を添えて茶を出した。今度は西洋の紅茶ではなく、倭那の国で普通に飲まれている緑茶だ。 「大丈夫ですよ。ベニヒは怒っていませんから」 グンジョウが気落ちしているのは、祓い屋という職業を莫迦にする発言をして、自分達を怒らせたと思っているからだ。 グンジョウは、縋るような目でキハダを見た。 「わたしも、怒っていませんよ。というか、わたしには喜怒哀楽の楽しかないので」 にこりと微笑んで、キハダが言った。 |