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【批評の反作用】 01/06/20

昨日の日記についてのご意見が。
>大勢の人が見ている前で殴られるのとではどっちがより屈辱的か
殴られるくらいならともかく、それ以上のことはいくらでもあるからねぇ。結果的に批判ではなく晒すになってたりしたら"殴る"ではなくて"服を脱がされて電柱に縛り付けられた"みたいな話になるし。内容次第じゃないのかなぁ? 殴ってるほうも痛いんだって感覚でやられたらたまらんね。

まあたしかに相手の受け止め方と批判のやり方によってはそういう風に受け止める人もいるかもしれません。でもリンクされた側がよっぽどイタいサイトでない限りはそこまで一方的にはならないと思いますが。リンクされて批判というのは、反論の機会が与えられるのですし。少なくとも批判である限りは。(悪口や誹謗中傷は別の問題だとして)
「殴った方の拳も痛い」とか「批判は諸刃の剣である」と書いたことをもう少し説明しますと。J-oさんの4/17の日記あたりと似た意見となりますが、直接相手から反撃されなかったとしても、その批判の内容があまりにマズいと第三者から「ヘタレ」だとか「イタい人」だとか評価されることとなります。しかも、それが蓄積されるとネット上で叩かれたり、2ちゃんねるに「○○ってどうよ?」と揶揄するスレッドが立ち、そういう場所で身内から裏話を暴露されたり、過去の言動をいちいち揚げ足とられたり、リアル世界でハブにされたり…と最終的には自分に返ってくるんですね。
そこまではいかなくても、批判するということはその反作用として「そう言うお前はどの程度のモノなんだ?」という問いを突きつけられるものなのです。もちろん、それに無自覚な人もいるでしょう。自覚的な人であれば、常にその言葉を自分の胸に突き刺しながら、人の批判を行なっているわけです。殴った拳も痛いというのはそういうこと。

私自身の体験談ですと、もう4年ほど前になりますか、1997年の夏のV6コンサートに怒りが爆発して、それらの感情をストレートに文字にしたため、ネットへと公開しました。そのときの文章がこれ。あまりにも感情的でみっともない文章でありますが。
これを公開するときには、多くの人の反発を食らうことは予想していました。このせいでそれまで築いてきたネット上での信頼や友達もすべて失ってしまうかもしれない。それでも、言いたい。その覚悟の上でのアップでした。
結果としては、知り合いに罵倒の言葉と共に絶縁宣言をされたり、リアル世界やネット世界でも嫌がらせされたりもしました。その一方で、私を批判してもその後の付き合いは変わらなかった友達もいましたし、私の考えに共感してくれて新しく親しくなった友達もいました。全て失わずに済んだけど、いろんなところに傷痕を残したのは確かです。でも少なくとも私は、自分のしたことが引き起こした結果から目を逸らしはしませんでした。だからといって免罪されるとは思ってはいませんが。
(実際にその文章を読んで「それほどキツイ、これ?」と思った方もいるんじゃないかと思いますが、ファンサイトの世界というのは色々とあるんですよ…)

言論の自由があるのは自分ひとりだけではないのですから。好き勝手なことを書いていたら、誰かに何かを言われる可能性はあります。だから私の場合は、相手から反論されたときのことや第三者に自分がどんな風にみられるかというリスクと、自分の「気持ち」をどれだけまっすぐに言葉にしたいかの思いの強さを秤にかけて、批評をするかしないか、するとしたらどういう表現をとるかを決めています。
基本的に面倒なことは嫌なので、トラブルに発展しそうなことは避けてるのですが、それでも何を犠牲にしてでも言うべきことはあると思うのです。それが昨日書いた、「戦う意思」を忘れずにいたいという話。

「リンクについてのアンケート」の逆リンクその4 。

◇虫の居所 6/18
→えっ、書評系の黎明期ってそんな感じでしたっけ? …私その頃は書評系って幅広く活躍している有名どころ以外はロクに回ってなかったからなあ。最初から今のようなオープンな空気かと思ってました。


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