まずは情報関係。
以下の情報はすべて最後通牒・半分版より。
超速報 JUMP Comics新刊案内によると、「ヒカルの碁」コミックスの発売日は、22巻が6/4、23巻が9/4予定だそうです。
22巻はおそらく第175局「秀英と永夏」から第183局「永夏の問い」まで収録されるはず。
23巻は第184局「日本VS韓国(1)」から第189局「あなたに呼びかけている」までの収録となりますが、このままでは実は3話分ほどページが足りないわけです。夏にあるという読みきりがちょうどそれくらいの量になるのか、それとも小畑先生の他の読みきり作品(たとえば「はじめ」とか)を収録するのか…
ちなみに今月のPickupのページでは、「ヒカルの碁」は「完結」扱いされています。…そうなんだろうなあ、と思ってはいましたが、はっきりそういわれると… 「北斗杯編 終」となっていて、「ヒカルの碁 完」と書かれていなかったことにほんの少し期待していたので…
ジャンプ原画展について。ジャンプ原画展公式サイトができています。
金沢の原画展に行った方のご報告によると、「ヒカルの碁」の原画は、カラーが5点とモノクロ(マンガ原稿)6ページが展示されていた、とのことです。私は小畑先生の生原稿をみる機会が今までなかったので、展示会にいくのが楽しみになりました。
ちなみに公式サイトによると、このイベントでも「ヒカルの碁」の各種グッズ販売もあるようです。
・複製原画 22000円
公式サイトの画像からすると、番外編「藤原佐為編」の扉絵かもしれません。「ヒカルの碁」のカラーの中では一番好きなイラストなので、これの複製原画ならほしいなあ。
・Tシャツ 2500円
表が永夏とヒカルの棋譜、裏は作品タイトル。大人用のMサイズです。外ではさすがに着れませんが、家用に買っちゃおうかなあ…
・マウスパット 1200円
アキラとヒカルのイラストです。
・ポストカード 100円
今後も情報関係はこまめにフォローしたいとは思っています。でも私は囲碁関係の雑誌や新聞は私のテリトリー外ですので、そこで「ヒカルの碁」関係の記事を見つけた方がいましたら、教えてください。よろしくお願いします。
最初の衝撃がやわらいで、あれから色々と考えてみたことを。すみません、今回の話、少々電波はいっています。
「ヒカルの碁」が最終回を迎えた、と知ったのはジャンプ発売前週の水曜日でした。(ヘビーなネットユーザーでは、この日に知って衝撃を受けた人が多いのでは。)そのときは詳しい内容がわからない不安と信じたくない気持ちとぐちゃぐちゃになって混乱するばかりでした。この日の夜は朝まで寝付けませんでした。
翌日、木曜日に詳しい内容の文字バレを読みました。「終了」だということがはっきりわかってがっかりする気持ちもありましたが、ヒカルは佐為の出した答えにたどり着いたんだ…とわかったことで逆に落ち着いた部分がありまして。この日の夜はゆっくりと眠ることができました。
実際にジャンプで読んで、あの世界での物語はずっと続いている、ただそれをこちらから知ることはできないだけなんだ…という気持ちになったことで、かなり楽にはなりましたが。でも、もっともっと続きを読みたい!!という気持ちがどんどん膨らむばかりで、最初に比べて楽になったものの、苦しさは完全にはなくなりません。いずれ時間が解決してくれるとは思いますが。
それでも腑に落ちない部分もあって、それが第189局の感想で書いた、「なぜ神様は奇跡を起こさなかったのでしょうか?」という話です。
そのことが頭にひっかかったのは、私が臆病者だからこそ、でしょう。
ヒカルは勝てそうにない相手に、無理矢理対局を挑み、そして絶対に負けるわけにはいかない状況に追い込まれて、負けてしまう。「喪失」に対する「回復」をちゃんと行わない。もちろんその悔しさは苦いだけのものではなくて、次につながるものではありますが。その「次」を描かず、仄めかさず、そこで終止符を打ってしまう…というのは、少年マンガ系エンターティメントとしてはリスクの大きいやり方です。ジャンルゆえに読者は少年マンガ的な展開(特にジャンプだと「友情・努力・勝利」ですね)を期待してしまうから、その読者の期待を外して失望されたりすることが、ほったさんには怖くないのだろうか?と考えこんでしまいました。私なら、怖くてとてもそんなことはできません。こんな小さな個人サイトでさえ、読者の反応が怖くて、飲み込んでしまった言葉もたくさんあります。
もちろん、今回の終わり方に満足されている方は大勢います。でも不満を表明している方も、相当数います。読者全員を満足させる終わり方はないでしょうが、それでもラストを軟着陸させて多くの読者を納得させやすい終わり方にすることは、ほったさんにはいくらでもできたはずなんです。
それにほったさんは、物語の作り方自体はオーソドックスで、プロットをしっかり組んでやるタイプの作家さんだからこそ、風呂敷をまったく畳もうとしなかったのがひっかかるんですよね。でもそれは、私が勝手に「こういうタイプの作家はこういう感じで話を作るだろう」と決め付けているだけなのかも…
「なぜ神様は奇跡を起こさなかったのでしょうか?」という疑問についての私の答えは、まだ落としどころを求めて気持ちがうろうろしている段階です。ただ「読者の期待を外してしまうことが怖くなかったのか?」ということについてですが、よく考えてみるとほったさんはもともと読者の目の前の期待よりも、物語を優先する人だったですよね。
あれだけ人気のある加賀くんを本編に出さない。三谷くんを傷つけてヒカルは囲碁部を去ってしまう。院生最後の年のプロ試験で伊角さんが落ちてしまう。佐為が物語から消えてしまう。これらのエピソードは、当時のそれぞれのキャラクターのファンをがっかりさせたものでした。
ほったさんはファンの気持ちを大事にしないわけではないけれども、それよりも「物語」の方が大切だったのかな…と。
だから、「改変」はしなかった。ああいう終わり方をすれば、読者に唐突な印象を与え、不必要な邪推を呼ぶことを承知の上で、物語を本来の姿からいじらなかったのだ。…と、思いたいのです。
色々といただいた意見の中で、各務さんの5/4の日記の中の、「物語を閉じたくなかったから」という意見は、私の「そうあってほしい」という気持ちの落としどころに近いものはあります。ただ、その前提の物語の解釈というよりも、捕らえ方が多少違うかも。私には、「ヒカルの碁」のキャラクターたちはそれぞれ自律しているようでありながら、物語の糸に絡み取られているように見えますから。キャラの自律と神様による制御のバランスの見事さが、物語にドラマ性とリアリティを与えているのではないかと考えています。
結局、私が探しているのは「気持ちの落としどころ」であって「事実」そのものではないんですよね。
そういうのはあれこれ考えるよりも、時間の解決を待つのが一番いいというのは、過去の経験からもわかっています。わかっていても、何かの拍子にふと頭に浮かんでしまうけれども。
とにかく、まずは夏の読みきりです。過剰に期待しないように、自分に言い聞かせながら夏を待ちます。