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【ヒカルの碁 つぶやき。(2)〜フォーマットからみる「ヒカルの碁」の物語の構造】 03/03/13

「ヒカルの碁」の第148局、第1部「佐為編」終了までの物語をフォーマットに当てはめるとどうなるかをかつて色々と考えたことをまとめてみました。
(今回の話は以前に日記や「感想。」で書いたことの焼きなおしで、単にまとめただけのものです。)

「ヒカルの碁」は物語タイプとしては「バトルマンガ」に当てはまります。そのバトルのモチーフとして「囲碁」を選んだことは斬新ですが、馴染みのないモチーフは有名な先行作品と比較されないという意味では楽な一方で、読者には「共通認識」の土壌がないために一から説明しなくてはならず、読者を引きずり込むための工夫があれこれ必要となるので難しい部分があります。

さて。少年マンガのバトルものでは、主人公のタイプは「成長型」と「最初から最強型」の大きく二つにわかれます。
「成長型」を選択した場合
メリット●敗北→努力→勝利のコンボが作りやすいので物語に起伏をつけやすい。
デメリット●話が地味になりがち。爽快感に欠ける。
「最初から最強型」を選択した場合
メリット●主人公が圧倒的なパワーを見せつけるので、爽快感を得やすい
デメリット●主人公が勝つかどうかという「ハラハラ」を作りにくい。物語がデフレしやすい。

それぞれのデメリットを補うために、普通は設定に工夫をします。
「成長型」の主人公に「最初から最強型」のサブキャラをつけたり、その逆にしたり、もしくはダブル主役にするわけですね。「ヒカルの碁」や「遊戯王」はこれに当てはまります。
ジャンプにありがちなのは、両者の折衷である「ローカル勇者」型。その地区では主人公が最強、でも物語のステージが変わると突然強い敵が現れて、さらに主人公も成長を…というパターン。でもこれは物語がハイパーインフレしやすいんですよね。「ドラゴンボール」は言うまでもなくこれ。
もちろんジャンプでも「ジョジョ」のスタンドのように「使い方」次第で強くなったり弱くなったりするようなタイプのバトルもありますが、これでおもしろく見せるには作者にかなりの力量が必要です。
(他に最近では「アイシールド21」も上記のフォーマットから外れていますが、パラメータ一点豪華主義のズブの素人のヒーローという設定が、アメフトというモチーフとうまく絡んで「最強の爽快感と成長の魅力」の両方をうまく出しているのではないかと思います。)
話戻して。「最初から最強型」でライバル関係の設定や物語の展開が緊張感を削がずにうまくいってる例をあげると最近では「ONE PIECE」、昔だと「北斗の拳」となります。そういえば両作品とも「ロードムービー」型の物語ですが、ロードムービーだと舞台が移ればその敵とのアクセスがなくなることが多いので、「主人公最強のはずなのに、似たようなレベルのやつらがウヨウヨいるよ…」という事態を避けやすいというのはあるかも。

「ヒカルの碁」の場合。「囲碁」という馴染みのないモチーフであるため、主人公はズブの素人に設定した方が読者に対してルールの説明はしやすくなります。ヒカルがレベル0からスタートするのは、そのためもあるかもしれません。そして発展途上の「弱い主人公」が爽快感に欠ける分、それを補うために、W主役的な立場に佐為という最強の存在が用意されたのかも。
でもまあ、実際は「平安時代の天才棋士の霊がとりついて…」というアイデアが先にあって、そこから演繹的に物語が生まれた可能性の方が高そうですけどね。

「ヒカルの碁」が斬新だったのは「囲碁」という珍しいモチーフを選んだことだけではなく、むしろ「バトルものに恋愛ドラマのような"誤解と思い込みとすれ違い"の構造を持ち込んだこと」ではないかと私は考えています。(念のため、「要素」ではありません)
この物語のライバル関係は基本的には「ヒカルvsアキラ」と「佐為vs名人」となっているんですが、実際の本人たちの意識ではヒカル→アキラ→佐為→名人と完全一方通行でした。
普通少年マンガ、特にジャンプでは主人公と第一ライバルは戦いを通して友情や共感を育んでいくものですが(第一ライバルが固定ではなく、パワーインフレで代替わりしていくのもよくある話ですが)、「ヒカルの碁」ではネットカフェの外でアキラがヒカルに別れを告げてから2年間、物理的距離は近いのに二人はロクに言葉さえ交わしませんでした。そのくせ、お互いに強く意識しあっていて。
アキラを惹きつけてやまなかったのは、ヒカルの持つ謎。そしてヒカルを動かしたのは、アキラの目を自分の中の佐為にではなく、本当の自分に向けさせたかったという思い。佐為の存在というヒカルの「秘密」を中心として生まれた誤解と思いこみとすれ違いが、物語を加速されました。
そしてそれはヒカルの成長と佐為の消失、そしてヒカルの目覚めによってすれ違いの構造は崩れ、ヒカルとアキラが正面から相対することで、「ヒカルとアキラのおいかけっこ」は終わり、物語は一旦第148局で幕を下ろしました。

そのおいかけっこの終わりが、もうひとつの「ヒカルの碁」の根幹となる「異世界生物同居型物語」の終焉と重なるところがうまいなあ、と思います。
「ヒカルの碁」は、「オバケのQ太郎」「ドラえもん」の系譜である異界生物同居型物語であるであるとも言えます。もし物語世界がギャグで、作中での時間がループしているタイプであれば「主人公と友達」は「永遠に一緒」でもいいかもしれませんが、シリアスな作品であれば「依存関係の解消」と「主人公の精神的成長」がワンセットで乗り越えるべき壁として登場します。…その葛藤を避けて「仲良く暮らしました」に逃げちゃう作品もありますが、「ヒカルの碁」ではその葛藤を避けることはありませんでした。物語上の必然の葛藤と痛みと、その昇華の仕方は、「主人公の成長物語」として、見事なものでした。本当に美しい一局でした。

で、第1部は「ヒカルとアキラのおいかけっこ」であるとすれば、第2部は「神の一手」への物語ではないかと個人的には推測しています。第1部に比べると、第2部は物語の主軸となる部分が見えにくいですが、第2部の布石となる「北斗杯編」が終わる頃には、全体の構想がおぼろげに見えてくるのではないかなあ、と思っているんですが… さて、どうなるのでしょうか。


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