index>作品目次>青い瞳の唄>1

青い瞳の唄

 リルス=ネイヴィーは鼻歌を歌いながら、部屋の掃除をしていた。肩より少し長くまで伸ばした黄金色の髪が、リルスの雑巾掛けのリズムに合わせて揺れる。
「ただいまー」
 ドアが開く音がして、リルスの同居人が帰ってきた。ひと段落着くまで鼻歌を続けてから、ドアの方に緑色の瞳だけ向けて同居人を確認する。ここは学生寮だ。リルス達二人が暮らす部屋は、五階建ての建物の三階にあった。
「あ、ステフ。おかえりー」
「またその歌、歌ってたの? 嫌いって言ってたじゃない」
 ステフに言われて、リルスは雑巾掛けする手を止め、暫し考えた。鼻歌にしていたのは、リルスが幼いころ嫌ほど聞かされた子守唄だった。
「ふっと、曲だけ思い出しちゃって、頭の中を回るのよね」
 リルスは言った。
 曲は覚えてるんだけど、歌詞はどうしてもわからないのよね。何か怖くてあまり好きじゃなかった、ってことしか思い出せないし。
 雑巾掛けが終わって綺麗になった窓枠に、造化を入れた花瓶を置きながらリルスは思った。
「青い瞳がどうとか、っていう歌詞よね?」
 ステフが聞く。
「うん。青い瞳っていうのは、このブローチの名前みたい」
 机の上の宝石箱を突付きながら、自分の勉強机に戻ったリルスは答えた。
 リルスはあまり裕福ではない。両親はリルスが八歳の時に亡くなった。資産は色々受け継いだが、その多くが、祖父が持っていた骨董品や美術品、そして土地と家屋だった。土地を売れば一時的に金持ちになれるが、土地は今売ると勿体無いぞという父親の妹のアドバイスを信じて、売るのは先送りにしている。骨董品のうちリルスが要らないと思ったものは売ってお金にしたが、二束三文にしかならなかった。それからこの学校に入るまでは、叔母の一家に世話になっていた。女学校を十六歳で卒業して、もう自分は一人前なのだから寮の家賃や授業料は自分で払うということで、国内で唯一の芸術学校に通うことを許されたのだ。芸術学校に掛かる学費は、普通の女学校出の女子が通う高等学部や、魔法を習う神学校に比べてずっと多い。叔母一家は女の子ひとりで都会へ出ることを随分心配してくれたが、リルスは自分でやれるだけやってみたかった。
 もっとも、現実はそう甘くない。学生寮の家賃は朝夕二食付きだし安いと思うが、毎月の出費。学費も当然必要。そして何よりも肝心の画材にお金が掛かる。
 ステフは神学校に通っているが、話を聞くと、学費は国から補助が受けられて相当安いということだった。
 リルスは意を決して、宝石箱に入っているそのブローチを掴んだ。
 曾祖母から受け継がれてきた家宝とも言えるものだ。青い大きな石が中央に入っていて、その縁は鳥が羽を広げたような形の黄金で飾られている。
 今は何よりもお金が欲しかった。明日の食事にも困るという程貧乏なわけではないが、来月の授業料と寮の家賃、あと絵の具も買い足さなければならないし、となるとまとまったお金が必要なのだ。
 リルスは外套を羽織って出かける準備を始めた。
「売っちゃうの?」
 ステフがリルスに言う。
 これだけは、今まで何があっても手放そうとしなかった。
「あんだけ大事にしてたのに。それ持ってたら、王子様が来るんでしょ?」
「そうよ。曾祖母様が、当時の王子様から頂いたものなんですって。時代を越えて、王子様がわたしを迎えに来るって、お母様が言ってたわ」
 リルスはブローチを布で包んで、木箱に入れた。
「今まで大事にしてたのに、勿体無い。わたしが良い仕事紹介するって言ってるのに」
 ステフが紹介すると言っている仕事は、夜の街で男性を相手に酒を飲んで会話するという商売だ。ステフはその商売で学生としてはありえない程稼いでいるらしい。
「わたし、そういうの苦手なのよ」
「ああ、そう言えば、この前折角受けた絵の仕事も、依頼主の変態オヤジがあんたの体を触ってきて、あんたがぶっ飛ばしちゃったんだっけ」
 ステフがおもしろそうに笑いながら言う。
「ぶっ飛ばしたんじゃないわよ。ちょっと張り手を喰らわせただけ。でもおかげで仕事は無かったことになっちゃって、あれ以来他の仕事も来ないのよ」
「そりゃ、依頼人殴ったら、仕事も来ないわよね」
「あっちが悪いんじゃない。わたしは絵描きで、商売女じゃないんだから」
 絵描きとは言っても、まだリルスは学生だ。それに絵描きと言えば男性の職業で、女性が商売として絵描きをすることは稀だった。一般的ではないので、仕事を得るためになんでもする女流画家も居るようで、そういうのと同じにされるのが屈辱だった。もちろん、ステフのような仕事は自分はやりたくないが、嫌悪する程でもないと思っている。
 でも、絵描きとして売れなきゃ意味がないじゃない。
 リルスは思う。
「リルス、絵描きになりたいっていう気持ちは大事だと思うけど、やっぱり、その、女の子が絵描きなんて無理なんじゃない? どっちかと言うと、リルスは絵描きするよりモデルした方がいいくらいだし」
 リルスは手足が長くほっそりしていて、それなのに出るところは出て引っ込むところは引っ込んで、姿勢も良い。化粧をしないので顔は地味に見えるが、その分肌は綺麗なものだ。男性相手の商売をしているステフからすれば、羨ましい限りだ。
「でも、わたしの絵を好きって言ってくれる人も居るもの。わたしが絵描き向いて無いかなぁって思ってたころに、励ましてくれた人とか」
 芸術学校に入って一ヶ月もしないころだ。周りの人々の才能と自分を比べて、絵描きは向いていないのではないかと思いながら、近くの公園で似顔絵描きの仕事をしていた。そこに来た青年が、リルスの絵が好きだと言ってくれたのだ。その時の客の顔も声質も覚えていないが、『あなたの絵が好きです』と言ってくれたその台詞だけは一生忘れないだろう。そのおかげで、今も絵を続けているのだから。
「じゃあ、行ってくる」
 リルスは大切に包んだブローチを手に、部屋のドアを開けた。
「行ってらっしゃい。リルス、あなた顔は綺麗なんだからいっぱい客取れるわよ。気が変わったらいつでも言ってね」
 後ろでステフの声がする。
「はいはい」
 適当に返事しておいて、リルスは寮の階段を下りた。管理人室の前の玄関から外へ出る。外は寒く、少し大げさかと思った外套がちょうど良かった。
 ガラガラと音を立てて、寮の前の道を馬車が通り過ぎていく。リルスの田舎では遠出する時くらいしか馬車は使わなかったが、ここはさすが王都、富裕層の移動手段は近所であっても馬車だそうだ。それで、寮の前の道は途切れなく馬車が行き来していた。
 この道は東西に伸びていて、西方面へ進めば政府の重要機関が詰まった王都中央部へ辿り着く。東方面へ少し行けばステフが通う神学校があるし、リルスが通う芸術学校は神学校から見える位置にある。
 行きつけの質屋まではそう遠くなく、神学校と芸術学校の間くらいにあった。質屋が行きつけになっているのもどうかと思うが、貧乏学生にとっては頼りになる店だ。
 木枠にガラスをはめ込んだ質屋の扉を軽く叩いて、中に入る。リルスは最初のうち、大事なものはなんとか金を工面して取り戻していたが、もう最近は質屋に入れるということはつまり、売るということと同じになっていた。
 店主にブローチを渡して鑑定してもらう。
 真ん中に入っている宝石はサファイアだと聞いている。周りの金も裏側に本物を示す印が入っている。
 サファイアが本物かどうかは怪しいけど、金は刻印あるから本物よね。金だけでも相当な価値があるんじゃないかしら。
 真剣に鑑定している店主の手元を眺めながらリルスは思った。
 暫くして店主から金額が提示された。それはリルスが現金として今までに持った事もない金額だった。
 喜んで承諾し、お金を受け取って店を出る。
 これで仮に仕事が無かったとしても、正月を越せるわ。再来月の分まで授業料と家賃は先払いしちゃおう。
 リルスは足取りも軽く、寮への帰路に着いた。

 一週間が過ぎた。ステフは学校へ行っていて今は居ない。
 リルスは課題に出された静物画を仕上げようと、イーゼルを立てて絵を置き、エプロンを着けた。リルスの場合、気をつけているつもりでもいつの間にか絵の具が服に付いているから、エプロンは必須だ。
 質に入れたブローチが流れてしまう期限は今日だ。もちろん、最初から取り戻す気はなかった。
 母親から、持っていれば王子様が迎えに来ると言われていたが、それは信じていなかった。幼いころは憧れもしたが、そもそも、王子が曾祖母にあげたということ自体、信じられないことだった。
 王子ってつまり、王様の息子よ? 大きなお城に住んでて、毎日のように宴を開いて、お金持ちの貴婦人達とダンスしたりしてるのよ?
 王子と言うとそういうイメージだ。一般人である自分達とは、どう考えても接点がない。
 リルスがパレットを手に持った時、部屋のドアを叩く音がした。
 パレットを床に敷いた古新聞の上に置いて、足音を殺してドアに近付く。怪しい人なら居留守を使おうと思ったのだ。
 ドアの覗き窓からこっそり外を見ると、ドアの前に立っていたのは栗色の柔らかそうな髪の、若い男性だった。瞳の色は綺麗な青。着ている衣服は清潔そうな白地に、金糸で縁取りのあるものだ。リルスは暫く見惚れていたが、我に返って声を出した。
「どちら様?」
「リルス=ネイヴィー嬢がこちらにいらっしゃると聞いて伺いました」
「わたしが、ネイヴィーです。あの、何の御用でしょうか?」
 リルスはエプロンを近くの洋服掛けに引っ掛けて、扉を開けた。
 新聞の勧誘だろうか。それとも最近流行の、化粧品の訪問販売だろうか。それにしても、こんなに若くて綺麗な男性がやって来るというのは聞いたことが無い。
「これはあなたが持っていたものですか?」
 男が言って、リルスが質に流したブローチを手に持って見せた。
「あ、これ。はい。そうですが」
 どうやってわたしのことを知ったの?
 なぜこの男が持っているのか、リルスは軽く混乱した。質で購入したのだろうが、質屋の店主が売り手のことを喋るとは思えなかった。
「では、わたしと一緒に来ていただけますか?」
 男はリルスの手を取ると、優雅に、リルスの手の甲に口付けをした。
「あなたを長い間探していました。わたしはエウルニーズ=フェイス。曾祖父の遺言に従い、あなたをお迎えに上がりました」
 はい?
 と聞き返そうとした声が上ずって、言葉になってなかった。
「何のことか……よくわからないのですがー」
 リルスは信じられなかった。目の前に立つ男性は確かに、エウルニーズ王子だ。新聞の写真で小さくしか見たことがないが、間違いない。
 エウルニーズ王子と言えば、成績優秀で運動神経も良く、特に剣術に秀でていて国内でも一、二位を争う腕前だとか。
 そのエウルニーズ王子が、今目の前に居る。
 しかも、リルスの手にキスをしてくれた。
 柔らかい唇の感触を思い出して、リルスの鼓動が凄い速さで鳴りだした。
「大丈夫ですか?」
 呆けた状態のリルスを見て心配になったのか、エウルニーズが聞いた。
 今エウルニーズの顔をもう一度見たら、リルスは気を失ってしまうかもしれない。目の前に王子が居るというのは、リルスにとってそれくらいの衝撃だった。
 別に今まで特に王子を意識したことは無かったのに、なんで。
 王子の写真なら新聞でよく見かけるし、それを見ても何も思わなかった。それが目の前に立たれると、これ程印象が違うものなのだろうか。
「このブローチは、わたしの曾祖父の弟があなたの曾お婆様にプレゼントした物なのです。ですが、曾祖父の弟は戦死してしまいあなたの曾お婆様との約束を守れず、兄弟の誰かにあなたの曾お婆様を妻として迎えるよう、遺言を残していたのです」
 エウルニーズが、先ほどの『よくわからない』と言うリルスの質問に答えて説明を始めた。
「しかし兄弟はわたしの曾祖父を残して皆戦死しており、曾祖父自身は既に正妻を迎えていたので、あなたの曾お婆様を娶ることができなかったのです。曾祖父はそれを残念に思っていて、息子であるわたしの父に、弟がブローチを渡した相手の子孫を探し、その子孫が女子であった場合は妻として迎え入れるように、との遺言を残したのです。父は結局探し出すことができず母と結婚しましたが、わたしが質にあったこのブローチを見つけて、やっとあなたに辿り着いたのです」
 長い説明を受けて、リルスは頷いた。
 説明を理解したという意味で頷いたのだが、なぜかエウルニーズに手を引かれて、部屋から外へ出ていた。
 まだ行くって決めてないのに。
 リルスが頷いたのを、全てに同意したと取られたのかもしれない。
 それでも、本物の王子に手を取られて、その手が緊張で震えてしまう。
 腰に下げた剣は本物かしら。着ている服はきっと絹でできてるんだろうな。すごく良い匂いがするな。
 とそこまで考えたところで、リルスは我に返って赤面した。良い香りは香水だろうか。ステフが色々な香水を持っていて、好きに使って良いと言っていたが、リルスはその香りが好きになれず、一度も使ったことがない。それなのに王子が身に纏うと、まるで別物だ。
 王子に連れられて、リルスは寮の前に止まっていた馬車に乗り込んだ。

next

表紙へ戻る 作品目次へ 作品紹介へ

index>作品目次>青い瞳の唄>1