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美術館に着いたのは夕方だった。
もう絵の展示準備は終わっており、作業員もあまり残っていなかった。美術館は普段は十八時で閉館だが、エウルニーズに聞いてみると、明日の開館までなら大丈夫と言われてしまった。
テソルクの作品は数が多く、国立美術館で持っているものよりも、貴族が個人で所有している物が多い。毎年開かれる生誕記念展では、個人所有の物も幾つか借りて展示するので、何度美術館に通っても見られないような作品もこの時だけは見られるのだ。
美術館に着くまでリルスはずっとエウルニーズの傷の心配をしていたが、テソルクの作品を早く見たくて、美術館に入ると急に早足になった。
「ねえ、カタログ買っても良い?」
リルスは売店を指差した。テソルクの作品を網羅した本があるのだ。クロッキーやスケッチはまた別の本が出ている。
「ああ、どうぞ」
笑って、エウルニーズはリルスに金貨を渡した。
売店にエウルニーズが行けばカタログぐらい無料で貰えるだろうが、買い物をすることが楽しいのだろうと思ったのだ。
リルスはエウルニーズに軽く手を振って、売店に小走りに走って行った。
「王子」
エウルニーズが一人になったのを見計らって、作業員の服装をした従者がエウルニーズの側に歩み寄った。
「魔宝珠を壊さないでください。あれは精製に数十年掛けたもので、かなり貴重なものです」
言いながら、宝石店で処分を頼んだものとさほど変わらない杖を、エウルニーズに渡した。
「時間を操るのは宝珠だけでなく体にも負担が掛かるのですね。次は大事に使います。けれどリルスの命には代えられませんから」
振り返らずに杖を受け取る。
「一つの魔宝珠の精製に一生のほとんどを費やす職人が居ることも、忘れないでください」
言われて、エウルニーズは従者を振り返った。
「忘れませんよ」
その言葉を聞いたかどうか、もう従者は作業員に紛れてわからなくなっていた。
リルスがカタログが入った紙袋を抱えて戻ってきた。
「重そうですね。持ちましょうか?」
実際に重かったから、リルスは迷った。
エウルにばっかり大変なことを押し付けていいのかしら。
リルスを片手で抱えられるくらいなのだから、力はあるのだろう。けれどあれは短い間で、この分厚いカタログはあと何時間持つことになるか。
「ううん、自分で持つからいいわ」
リルスは言った。
作業員達が作品の説明を案内板に貼り付けているのを横目に見ながら、順路に従って館内を回る。エウルニーズは、この日初めて見る作業員や館員と会うと、必ず簡単な挨拶を交わしていたので、一通り回ると疲れたようだ。椅子で休むと言うエウルニーズを残して、リルスだけでもう一度絵を見た。
初期の作品は写実画が中心だ。まだテソルクとして完成されていないなどと評論家は言うが、リルスはそんなことは気にしない。初期の作品も後期の作品も、好きなものは好きだし、そうでないものもある。
「ねえ、あの絵は無いの?」
リルスは、展示室の真ん中に設置された椅子で休んでいたエウルニーズの所へ行って聞いた。
「あの絵って、どの絵ですか?」
「えっとね、」
買ったカタログを出して椅子の上で開く。リルスはテソルクの初期の作品から、一つの絵画を指した。湖を描いた風景画だ。リルスが田舎に住んでいた頃、何かの広告に使われていたのを見て、それからずっと好きな絵だった。
「その絵は『湖畔』ですね。確か、王室から戦後復興の為のオークションに掛けられて、その際に行方知れずになった物です。この写真も随分古いものを使っています」
エウルニーズが言う。
「漆黒への依頼目録に入っていましたが、どうなったか」
声を潜める。
「そうなの……」
漆黒なら、あの絵を見つけ出すかもしれない。一瞬、希望が生まれた。同時に漆黒の顔を思い出して、胸が高鳴る。
でも、漆黒は今居ない。
思って、希望が消えた。そもそも漆黒は、リルスを攫ってブローチを盗んだのだ。悪人だ。なぜそんな人に希望を見出してしまうのだろう。
自分がエウルニーズを好きなのかどうか、わからなくなる。
そのたびに、エウルニーズは「時間が掛かっても構わない」と言うが、リルスはどうしても不安になってしまう。手が触れるだけで逃げるような自分を、エウルニーズはずっと好きでいてくれるのだろうか。
わたしがエウルを好きになるその時までずっと、エウルは変わらず居てくれるのかしら。漆黒なら、ずっと……。
カタログから顔を上げて、エウルニーズを見る。
それに気付いたのか、エウルニーズも顔を上げた。
すぐ近くで目が合う。
口づけは突然のことだった。
何が起こったのか一瞬わからず、少し経ってから事態を理解したリルスは、急いで顔を背けた。
涙が出てきた。
なんで?
自分で涙の理由がわからなかった。悲しいわけではない、嬉しいからでもない、辛いわけでもない。
「……申し訳ありません」
エウルニーズが謝る。
謝らなくていいの。エウルは悪くないの。
声を出すと泣き出してしまいそうで、リルスは黙ってじっとしていた。周りには美術館員や作業員がうろうろしている。こんな所で泣いたら、エウルニーズに悪いと思う。
漆黒のことを想っていた時に、口づけされた。だから、驚いて涙が出てしまった。
悪いのはわたし。
じっとして、涙が自然に止まるのを待つ。
涙が止まったので、リルスはやっとエウルニーズに顔を向けた。
「ごめんなさい。びっくりしちゃって」
リルスが言った理由に、エウルニーズは安心したように微笑んでくれた。
もう一回作品を全部見てから、リルス達は城に戻るため馬車に乗り込んだ。
「わたし、やっぱり絵を描きたいな」
馬車に揺られながら、リルスが呟く。
まだエウルニーズと婚約したわけではないから、リルスが絵描きになるという夢は消えていない。
「描いても良いんですよ」
エウルニーズが言う。
「部屋が汚れるからできればやらないでって、言われたけど」
侍女にそう言われたことを、リルスはおかしなことだとは思っていない。もし絵を描いたら実際に汚すだろうが、床に敷き詰められた毛足の長い絨毯を汚すことは、リルスも望んでいないからだ。
「気になるなら、専用の部屋を作らせますよ。でも前もって言っておきますが、美術講師を呼ぶつもりはありません。趣味でなら幾らでも絵を描けばいい。ですが職業として絵描きを選ぶということであれば、わたしはリルスに協力することはできない」
エウルニーズが苦い表情で言った。
職業絵描きになるということは、王子と結婚はしないということ。
「でも、まだわたし決めたわけじゃ……」
言いかけて、口籠もる。
決めていないから、自分の将来の為に専門の講師を呼べというのはおかしい。そんなことは当たり前だ。
エウルの言うことが正しい。
あまり深く考えると、決めてもいないのに、城に住み着いていることもおかしいということになってしまう。
エウルニーズがゆっくりと息を吐いてから言った。
「申し訳ありません。大丈夫ですよ。何とでもなります。将来貴女が絵描きになったとして、その時わたしが周りから何と言われるかと考えてしまいました。そんなことはどうでも良いですよね」
ただの絵描き見習いのために講師を雇うくらいなら元から上手い絵描きを雇えば良いのだから、非難は避けられない。
「もしリルスが絵描きになったら、わたしは貴女を宮廷に閉じ込めて、毎日絵を描かせるかもしれません。そうすれば貴女を独り占めできますから」
優しい青い瞳で、見つめられる。
リルスは高鳴る胸を鎮めようと必死だった。
「冗談で言ってるのよね?」
リルスは笑いながら言った。エウルニーズの瞳を見ても、何もわからない。
エウルニーズの微笑が一瞬消えた。すぐに、笑顔に戻る。
「さあ?」
言って、リルスに見せた表情はいつもの優しげな笑顔だった。 |