index>作品目次>青い瞳の唄>8

青い瞳の唄

 翌日になって、美術館にテソルクの『湖畔』が送られて来たと報告が上がった。そのことを伝える為に朝早くにリルスの部屋に来たエウルニーズは、椅子に座ろうともせずに、怒気を含んだ声で言った。
「送り主は不明だそうですが、おそらく漆黒の仕業です。リルスがあの絵を好きだとどこかで知って、テソルクの生誕記念に時期を合わせて送ってきたのでしょう」
「でも、戻ってきて良かったじゃない」
 怒りを静めようと、リルスは明るく言う。それがエウルニーズの神経を逆撫ですることになっているとは思わなかった。
 『湖畔』がまた見られるようになったことを、リルスは素直に喜んだ。それは誰が送ってきたのであっても同じだ。特に漆黒からだからではない。けれどその送り主に感謝したのは確かだ。
「リルスに酷いことをしたのに、まだ関わろうとしているのか!」
 エウルニーズの怒ったような口調に、リルスは驚いた。エウルニーズがここまで怒るのは珍しい、というかリルスは初めて見た。
「何が何でも、見つけて捕らえてやる」
 おそらくは独り言なのだろう。エウルニーズは言うと、リルスの向かい側に座った。
 様子を伺っていた侍女が、この時になってやっと紅茶を出しに来た。
「それで、『湖畔』を見に行きますか?」
 エウルニーズが言う。
 見に行きたかったが、今行くと言うとエウルニーズに悪い気がして、リルスは首を横に振った。
「昨日いっぱい見たから、良いわ。カタログも買ってもらったし」
「そうですか。またそのうち、一緒に行きましょう」
 エウルニーズが笑顔で言う。やっといつものエウルニーズに戻ったと、リルスはホッとした。
 リルスは何か別の話題でも、と思って外を見ようとした。しかし外が寒く部屋の中は暖かいので、窓ガラスが曇って外が見えない。
 随分寒くなったわね。
 エウルニーズに初めて会った日も既に、涼しいというより寒いくらいだったが、今は完璧に冬の気候になっていた。
「もうすぐ氷の花が咲くわね」
 エウルニーズは驚いた顔をしてリルスを見た。
「なんですか、氷の花って」
 花が咲くと言うと、一般的には春に花が咲くことだ。冬に咲く花も無くは無いが、あまり話題に出されない。
「雪のことよ。小さいころは、雪のことを氷の花って言ってたの。木に積もると花みたいに見えるからじゃないかしら」
「では、漆黒が言っていた『花が咲くころ』というのは……」
「ああ、そんなことを言ってたわね。あのブローチは財宝の鍵で、その財宝があるのが氷の花と鳥の翼っていう場所だとか」
「漆黒はそこに居るということですか」
 エウルニーズが身を乗り出して言った。
「エウルニーズ王子」
 誰かが部屋に入ってきた。三十歳前後の男だ。エウルニーズが漆黒の行方を追わせているから、最近はリルスとも何度も顔を合わせている。
「『湖畔』の送り状から漆黒の足取りが掴めました。しかし、最後に居た場所も既にも抜けの空で、部屋に残っていたものは全て回収して参りましたが、ご覧になりますか?」
 エウルニーズは頷いた。漆黒の居場所の目処が付いた為、エウルニーズの表情は明るい。
「リルスも一緒に行きますか?」
 言われて、特に断る理由が見当たらないので頷いた。
 城の一室に、漆黒がそれぞれの隠れ家に残していった物が集められていた。リルスは入ったことがなく、見るのは今日が初めてだ。
「王子、この絵は何でしょうね。漆黒が持っていたくらいですから、価値のあるものなのでしょうね?」
 部屋に来たエウルニーズに向かって、室内で片付けをしていた男が聞く。エウルニーズは有名な画家の作品ならその画風で大体わかるようだ。
「いや、知らない絵だな」
 エウルニーズにそう言われて、男は残念そうにその絵を他の物に立てかけて置いた。
 しかしエウルニーズはその絵に近付いた。
「自画像、いや、肖像画か」
 それ程大きくもない。手に取って見てみる。
 リルスも覗き込んでみた。長い髪の男の絵だ。髪型は違うが、漆黒のようだった。しかしそれよりも、リルスはその絵に見覚えがあった。
「サインは無いのかな」
 エウルニーズが絵から額を外している。
「それ、わたしの絵」
「そうですか。リルスが描いた絵ですか」
 時が止まった気がした。
 エウルニーズが動き出す。先ほどまでよりも急いで、額を全て外した。絵の右下隅にサインが入っている。
「確かに、リルスと読めます……」
 エウルニーズが絵を見つめている。
 あの時の人。
 この絵はリルスが公園で似顔絵描きをしていた時に描いたものだ。あの時、リルスの絵が好きだと言ってくれた人。似顔絵だから普段はサインは入れないのだが、その客に請われてサインを入れた。その人は大切にすると言って、絵を持って帰った。
「あの人が、漆黒だったなんて」
 一年以上も前のことで、客の顔ははっきりと覚えていなかった。だが、自分が描いた絵は見ればわかる。描いた当時の事を鮮明に思い出す。
 リルスの絵を好きだと言ってくれた青年は、リルスが女学校時代に卒展で描いた風景画を見て、それからずっとファンなのだと言っていた。長い黒髪はボサボサで疲れた人のように見えたが、前髪に隠れてよく見えない二つの瞳は、とても輝いていた。その青年に会ったのは、その日からニ、三度だけだった。
 漆黒と会ったのは、初めてではなかったのだ。
 あの時の言葉が、今までどれほど励みになったことだろう。それなのに、リルスはその言葉の内容だけ覚えて、相手の顔はすっかり忘れていた。なんて酷い話だろう。
「燃やしてくれ」
 エウルニーズが言って、絵をそこに居た男に渡す。
「あ」
 リルスは止めようとした。しかし、言葉にできなかった。エウルニーズが燃やせと言っているのだ。リルスがそれを止める権利はない。
「やっぱり燃やすのはやめにしよう」
 リルスの気持ちを察したのかどうか、エウルニーズが言った。
 男は絵をエウルニーズに返した。
「この絵は、良い絵だ」
 描かれている漆黒は、優しい目をしている。リルスが今の漆黒を見ても思い出さなかったのも無理はない。
「愛に溢れている」
 エウルニーズが呟く。その呟きは、リルスにも聞こえた。
 そうだ、当時はその人が好きだった。自分の絵が好きだと言ってくれる。けれど相手は絵を買ってくれるだけの客で、恋人にはならないと思っていた。
「リルス、漆黒に会いに行きましょう」
 エウルニーズが微笑みながら言った。涙を堪えているのか、瞳がいつもよりも潤んで見えた。
エウルニーズが絵を見て何を知ったのか、リルスにはわかる。リルスから漆黒への気持ち。それは古いものだが、元は大切なものだったはずなのだ。
 氷の花と鳥の翼は、万年雪が積もる山脈の麓にある。雪が降る時期は王都に比べると少し早い。逆に雪が積もってしまうと移動できなくなる恐れがある。早めに出発した方が良さそうだった。

next

表紙へ戻る 作品目次へ 作品紹介へ

index>作品目次>青い瞳の唄>8