「お姉ちゃん」
少年は言って、姉を見上げた。
「どうしたの、ルカ?」
姉は少年と目の高さを合わすように、屈んだ。
姉も妖精だった。左手の中指には、銀の指輪をしていた。
「お姉ちゃん、僕たちのお父さんとお母さんは、どうしちゃったの? 町の人たちは? 叫び声が聞こえるよ。僕に、復讐しろって言ってるよ」
姉は、弟を抱き締めた。
「そうね。わたしにも聞こえるわ、町の人たちの声が。でも、ルカとは違う……。みんなはわたしを責めているわ」
「どうして? お姉ちゃんのせいじゃないよ」
少年の言葉に、姉は首を振った。
「半分は、わたしのせいね」
姉は悲しげに言った。
「お姫さん!」
ルカはイーメルの姿を見ると、駆け寄ろうとした。
「待て、ルカ。その剣をわらわに近づけるな」
イーメルは言った。
「?」
ルカは不思議そうにしながらも、ダイゴラス・ソードを地に置いた。
「わらわは迷いを断ち切ることができなかった。試練を越えられなかった」
「ふーん。でも、俺にも結局試練っていうのが何だったのか、よくわからなかったんだ」
ルカは言った。
「そうであろうの。クレイシステレスは変わり者じゃ。奴はわらわらに、生きる心を求めておった。困難のなかに生きる心を」
イーメルは白い髪を払って言った。
「……わらわには、困難の中で生きることはできないようじゃ。楽して生きてきたからな」
ルカは、イーメルを見て言った。
「全然楽してねえよ、……ユディト」
イーメルが、驚いた顔でルカを見る。自分が言われたのだと、気づくのに少し時間がかかった。
『真実を試す鏡』はルカに、イーメルがルカの姉、ユディトであることを教えたのだ。
「『真実を試す鏡』の本体はここにある。来てみろよ。剣には触れなくても、鏡を覗くことはできるだろ」
イーメルは、言われるままに鏡を見た。
――そなたの名は?
声が、直接イーメルの中に響いた。
(わらわの名はイーメル)
――違う。そなたの名は別にある。その名こそが、そなたの真実を知るための鍵じゃ。
(名前が鍵? そなた、何者じゃ。クレイシステレスではないな)
イーメルは心の中で話した。
――名を名乗れ。さすれば、そなたの真実が見えよう。
(ユディト……? ルカがそう言った)
鏡が強い光を放った。
イーメルに、記憶が流れ込んできた。生まれてから百四十五年間の記憶が、イーメルに蘇った。
蘇った、とは言っても、『そういえばそんなことがあったな』くらいのものであるが。
「この鏡は、竜〔ディガー〕なのか?」
イーメルは言った。
「俺にはわからないけど。お姫さん、いや、姉さん、もうわかっただろう?」
ルカが言った。
イーメルは頷いた。
「ああ。やっと、そなたが言っていた意味がわかった。そなたの思い込みも。……わらわがそなたの実の姉ではないことも」
「何だって!?」
(やはり、知らぬか)
イーメルはルカの反応を見て思った。
「もともと、わらわは記憶を無くしてあの町に転がり込んだのじゃ。やがてそなたが生まれるあの町に。あの町で、わらわはそなたの姉として暮らしておった。だが、十六年前の火事で、わらわは全てを思い出した。自分の地位や、本当の父母のことを。あの町が、我が父イレイヤ公に攻撃されたのは、わらわを取り戻すためであった」
イーメルが言った。
イーメルの言葉に、嘘は見当たらなかった。
イーメルはルカの姉ではない。そして、町を滅ぼしたイレイヤ公の娘である。それが真実だ。
ルカの心は大きく揺れた。探していた姉が、復讐しようとしている相手の娘だったのだから。
「そのダイゴラス・ソード、本物かどうか、試してみたいであろう」
イーメルが剣を指して言った。
「わらわで試すが良い。わらわこそ、そなたの町を滅ぼすに至った原因だから」
イーメルの心には、絶望があった。
自分を嫌う父。
あの町は、イーメルが大切にしていたものだったのに、父親はイーメルを取り返すという理由で、破壊の限りを尽くした。
あの町での記憶を無くし、なんとか姫として暮らしていたのに、人を殺してしまった。それからは、逃げてばかりだ。
ルカは、イーメルをかばって人殺しの罪を被った。しかしそれも、イーメルのためではなく、おそらく、姉ユディトのためであったのだろう。実の姉だと思っていたからこそ、イーメルをかばったのであって、本当のことが、イーメルはルカとは何の血の繋がりもないとわかった今、ルカはもうイーメルをかばってはくれないだろう。
(そう、確かに、お姫さんも敵だ。ここで殺した方がいい)
ルカは剣を拾った。
でも、そうだとしても。
「俺にはできない」
剣を持ったまま、ルカはその場に立ち尽くした。
「お姫さん、俺があんたを殺せるわけないだろ? 無茶言わないでくれよ」
ルカは迷っていた。口ではそう言いながらも、心の中で誰かがルカに、イーメルも殺せ、と囁くのだった。
「あの町の人々は、そなたがわらわを殺すことを期待しておる」
イーメルはなおも、自分を殺すように言った。
「畜生――」
ルカは呟いた。
町の人々の囁きと自分の考えが、真っ向から対立していた。つらかった。つらくて、涙が出た。
「できねえ、って言ってるだろ いくらあんたらに言われても、俺にはできないんだ」
ルカは、ずっと持っていた金の筒を、地面に打ち付けた。
町が火事で焼けた跡に残っていた、金の筒を。
「ルカ」
イーメルがルカに近寄ろうとすると、人々の思いが、二人の間の壁となって、二人を近づけさせなかった。
「人々の怨念か」
イーメルは呟いた。
人々は、イーメルを自分たちの敵とみなし、ルカにイーメルを攻撃させようとしていた。
「ルカ、わらわは構わぬ。死んでも構わぬ。町の人々の無念、良くわかっておる」
「これはお姫さんの気持ちの問題じゃねえよ。お姫さんが構わなくても、俺がいけないんだ。俺、お姫さんが好きみたいだ」
二人の間の見えない壁の向こうで、ルカが笑って言った。
「失せろ――」
人々の叫びに対して、イーメルが言った。
「悪霊どもよ、失せるが良い。我はここに誓う。ルカと命をともにすることを」
人々の叫びが消えた。
「お姫さん、いいのか? そんな誓い立てて。……おかげで静かにはなったけど」
ルカが言った。
「約束は守ろうぞ。そなたがわらわの父を倒すというのなら、わらわはそれに協力しよう。そして、そなたがわらわを倒すと言うのであれば、わらわはそれを受け入れよう」
「ありがとう、お姫さん。でも俺は、」
――最後の試練、良くぞ打ち勝った。
竜が言った。
「……試練だと!? 今のがか? 人をおちょくっとんのか、おい」
「まあまあ、ルカ。そう怒らずとも。……もっとも、わらわはかなり前から気づいておったが」
「知ってた……のか? じゃあ、さっきの誓いも……」
ルカがイーメルを見た。
「試練をクリアするための方便じゃ」
イーメルはあっけらかんとして言った。
「そなたが泣いたのを見たのは初めてじゃ。おかげでわらわは得した気分になったがの」
「は……」
恥ずかしい。
ルカは腹立たしさと恥ずかしさで、一瞬言葉を失った。
「知ってたんなら教えろよ」
「それができたら苦労はせぬわ」
イーメルは竜の鏡を指した。
「あれはそれほど弱くない。あれの意に逆らうことなどできぬ」
――……そろそろ話させて貰っていいか? そなたらは我が剣をとうとう手に入れた。再び封印するも、それを使うも、そなたらの意に任す。では、帰るがいい――
竜の声と共に周りの景色が揺れて、元の洞窟に戻った。
二人はダイゴラス・トーチスを後にした。
「朝になってやがる」
ルカが言った。
「その位であろう」
イーメルが言った。
「あのさ、さっき言いかけたことだけど」
「なんのことじゃ?」
「『ありがとう、お姫さん。でも俺は、』」
「ああ、あの時のことか。それで、なんじゃ」
「でも俺は、お姫さんを死なせたりしない……って、それだけ言いたかったんだ」
朝日が眩しい。
「……ありがとう」
一時たってから、ポツリとイーメルが言った。
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