エッセイと言うか、作文と言うのか、思いついた時に。


2005/12/31(Sat)  楽屋のれん
年の瀬に届く<年賀状・欠礼します>のお知らせが
この何年か増え続けている。

(母が2度目に倒れた頃からわたしは、このハガキを出す日が来るのが怖くなって、年賀状を用意しなくなった。何年間も、いただいた年賀状への返事のみ書くというズボラをしていた。)

そして、母が亡くなってスグのお正月も同じ対応をと考えていた。
たが、困った。
母の生前の希望通りに遺体を献体をする事もあり、身内だけで葬儀を済ませたために
母の死を知らない多くの人から母を案じる言葉が書かれており
連絡をすると決まって「何故、知らせてくれなかったの!?」と
沢山の方からお叱りを受けて、何回も説明をし、その都度泣いた。
(この繰り返しは、悲しみがその都度込み上げてきて応えました。そして身から出た錆と、反省もしながら、常識を覆すコトの重さを、識りました。【多くの人の、長年の積み重ねた智恵の固まりが、常識といわれている。これに外れた行いの説明は難しく、実に大仕事になる】また【葬儀は、悲しみにある区切りをつけるための場でもある】コトを教えられた。)

わたし達日本人は、年末に<年賀状・欠礼します>と書き送り
受け手は、その内容の重さを感じとり・共有する。
そして互いが<新しい年をより良く生きる>決意をし合う。
(最近になって、こうしたお知らせを書く事と、送る相手が居るコトは大切であり、ありがたいのだ、と理解出来た気がしています。)

のれんと
これ↑は、昨年の11月公演の楽屋前のスナップ。
舞台俳優と自負する俳優さんは、それぞれに色々な楽屋暖簾をお持ちだが
わたしは、この写真にある一枚しか、持っていない。

'82年から一人芝居の公演を続けてきたが
その殆どが、楽屋暖簾を飾るヒマも無いような短期間の公演だったので
この一枚で間に合っていた。
また、大事にしてきたので痛んでもいない。
(だが、この楽屋暖簾を創って贈ってくれた友・宮崎裕之さんは、もうこの世にいない。もう3年も前に亡くなった。)

彼の不慮の死を知らせて下さった人は、姉上だった。
京都に仕事で行った折に、お墓に案内して頂いた。
その時に初めてお会いした姉上との交流が続いている。
昨年のお墓参りの折には お土産にと 手編みのセーターを戴いた。
その姉上と、彼の話を共有したくて、この写真を撮った。

  年の瀬に、楽屋のれんと手編みのセーターの繋がりを想う  LEIKO



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