十、強い人
自分が居る場所がよく分からない。山の中腹辺りなのか、それとももっと出口に近い場所なのか。そもそも出口という物があるのか。
ナティセルが走り出してから、まだそんなに時間は経っていなかったが、もうあの嫌な音と臭いからは、随分離れていた。
辺りの気温も先ほどより暖かく感じる。日が昇っているのか、それとも地表が近くなったのか。
「待って。――行かないで」
後ろから声を掛けられて、ナティセルは立ち止まった。
息を整えて、体ごと振り返る。
声の主はサニーメリだった。やはり、自分の居場所はサニーメリに知られていたのだ。そうでなければ、適当な道を選んで走ってきたナティセルに追いつけるはずが無い。
サニーメリが顔を顰めて、ナティセルに縋りつく。
顔も、声も、緑の瞳の人によく似ている。けれど、あの人はこんなことはしない。
サニーメリからは強い血の臭いがして、何か別の臭いを隠していた。
「お願いです。ここで、ここで私と一緒に暮らして下さい。竜はもう居ません。あなたがここの王になってください」
ナティセルはサニーメリの肩を突き飛ばした。
サニーメリは普通の女のように、小さく叫んで地面に腰を落とした。
「血の臭いがする」
ナティセルは言った。
サニーメリは眉尻を下げて、両手を胸の前で組んだ。
「これは、料理をしていたのです。竜の毒気に中てられて弱っている貴方に、力を付けて頂こうと思って」
微笑みながら言う。
ナティセルは額飾りを頭から外した。乳白色の石を指でなぞる。
「俺が竜の毒に中てられたということを、なぜお前が知っているんだ? 近くで見ていたからだろう。竜を殺したのは、お前だな」
サニーメリの表情が変わった。
「わたしは、ただの人間です。竜を殺せるはずがありません」
それでも、言い訳をする。
「毒を用いれば殺せるのだろう。槍に毒を塗って、竜に打ち込んだな」
ナティセルの言葉に、サニーメリは震えだした。当たっていたということだ。
「二年に一度、なぜ女を要求した。今お前が殺してきたのは何だ」
臭い。
嫌な臭いだ。魚の臭い、鳥の臭い、それぞれ別の臭いを持っている。だから、分かる。サニーメリから漂う血の臭いは、人間の臭いだ。
「酷い事を言わないで。私は竜に捕らえられて、長い間ここで暮らしていたのです。何も知りません」
サニーメリが言った。
ナティセルは黙った。
会話を続けるだけ無駄だ。相手が人間であれば、話して解決することもあるだろうが、サニーメリは違う。
「俺はここを出る。こんな所の王になっても嬉しく無い」
サニーメリに背を向けて、道を進もうとする。
サニーメリの言葉に、何か魅力的な部分はあっただろうか。ここの王になって、ここで暮らせと言っていた。そんな要求を飲む人間が、居るわけがない。
「待って下さい。私を見捨てないで。私の夫になって下さい」
涙声でサニーメリが言って、ナティセルの腕にしがみついた。
緑色の瞳が、ナティセルを見上げている。涙に濡れた瞳は美しかった。
あの人は、こんなことで泣いたりしない。
もし、サニーメリが言うことにひとつだけ魅力があるとすれば、自分が好きになった人に良く似た外見のサニーメリを妻にできるということ。
どうして、こんなに似ているんだ。
ナティセルの記憶の中の、緑の瞳の人を、そのまま成長させたような外見。
ナティセルは腕を振り払った。
「俺の夢を覗いたのか!」
声を荒げる。
毒を受けて寝込んでいる間、ナティセルは夢を見た。あの人に会った時の夢。
自分だけの記憶を侵食されたようで、ナティセルは憤る。
「私は、貴方に喜んで頂きたくて」
涙を溢れさせて、サニーメリが言う。
喜ぶわけが無い。ナティセルはあの人本人にしか興味が無い。
「お前は俺の触れてはならない物に触れたんだ」
続けて、呪文を唱える。
詠唱の終了と共に、サニーメリに向かって光の柱が突き刺さる。
それは実体の無い槍だが、このショックで死ぬ人間も多い。サニーメリもその場に倒れ、一、二度痙攣した後動かなくなった。
生きているか死んでいるかは知らない。あの人の姿のまま倒れるサニーメリを見たくなかった。
あの人は、俺なんかに負けない。
ナティセルの記憶に残る緑の瞳の人は、誰よりも強かったのだから。
ナティセルは道を進んだ。
手に持っていた額飾りに目をやる。少し迷った。元の月長石はサニーメリが持っているのだろう。こんな偽物の額飾り、もう必要ない。そう思うが、そこら辺に捨て置くのも気が引けたので、そのまま持ち歩くことにした。
暗い道が続いていたが、途中で明るい道に出た。明かりが灯っているということは、サニーメリが使っている道と考えて良さそうだ。一瞬、元居た場所に戻ったのかと思ったが、壁の感じも見たことのない物だった。
明かりが無い方が安心するとはな。
ナティセルは思って苦笑した。暗ければ、サニーメリの姿を見なくて済む。外見に惑わされることもないのだ。
ナティセルは明るい道を通らずに、そのまま真っ直ぐに進んだ。
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