九、冷たい場所
ナティセルは寝台から起き出して、部屋から通路へ出た。
サニーメリにはこの部屋から出てはいけないとは言われなかったし、多少うろついていても彼女の機嫌を損ねることはないと思ったのだ。
サニーメリの考えがわからない。会話をしていても悪意が感じられない。そのくせ、大事なことは嘘を交えて暈してしまう。
今考えてわからないことは、状況が変わらない限り、永遠に考えてもわからないままだろう。どうしてこうなったのかを考えていても、他人が関わったことだから仕方ない。今自分がどうしたいのかを考えなければならない。
スターニーを探しに行こう。
ナティセルは考えを切り替えた。
ナティセルが居た部屋は多くの蝋燭に火が灯っていて明るかったが、通路はそれより少し暗い。明かりが灯っていない通路を見ると、少し先は真っ暗で何も見えなかった。
壁に掛かっている蝋燭の火を消して、土台ごと引き抜いて手に持つ。別の蝋燭から火を取って、それを明かりにすることにした。
足元に注意しながら、通路を進む。地下水が染み出しているのか、地面は水に濡れていた。ここは人が歩いた形跡が無い。
引き返して、別の通路へ進む。足跡は特に見当たらない。振り返ると自分の足跡も無いので、ここは地面が硬くなっているらしい。少し歩いてから左右の壁へ蝋燭の光を近づけてみると、火の灯っていない蝋燭があった。燭台は古びているが、蝋燭は今ナティセルが持っているものよりも新しい物のように見える。
こっちか。
その通路をそのまま進んだ。緩い下り坂になっていて、途中で気温が低くなってきた。外が夜になったのかもしれない。
結構な時間が経って、食事を作ると言っていたサニーメリが自分を探し始めたのではないかと思い始めた。額飾りの月長石を指でなぞる。おそらく、サニーメリに自分の居場所はわかっている。彼女がこの石をすり替えたのは、その為だろうから。
ひとつの石を砕いて作った二対の宝石は、片方の在り処をもう片方に伝えることができるという。何の変哲もない普通の石に過ぎないのに。ナティセルも、別の場所に暮らす双子の妹が実際にそれをできると言わなければ、他の誰かに言われても信じなかっただろう。
額飾りをどこかへ置いて来てしまえば石による追跡は無くなる。しかしここの地理がわかっていない現在、石の追跡がないだけで逃げ切れるものではない。サニーメリが何を企んでいるのかわからないし、ナティセルが逃げようとしたら何をするかもわからないのだ。
見覚えのある場所へ出た。最初にナティセルが連れて来られた部屋だ。地面には拳程の大きさの石礫がごろごろと転がっている。ナティセルが土精霊を使って作った槍や壁の欠片だろう。部屋の中に竜は居なかった。竜が出した毒煙のようなものも、もう消えている。部屋の隅にあった酒樽は、いくつかは倒れて割れていた。
駆け寄って、まだ綺麗に並んだままだった酒樽を順に覗き込む。
「スターニー」
声を掛けながら探すが、並んでいる酒樽は全て蓋が閉じたままだった。
部屋を見回す。
他に、人が隠れられそうな場所はないか? 今自分が来た以外の通路や抜け道はないか?
「スターニー、居るなら返事をしろ」
それ程広い部屋ではない。数歩行けば壁にぶつかる。
岩の上に布切れをかぶせただけの寝台代わりの場所。誰も、何も居なかった。もう一度酒樽を調べても先ほどと変わらない。全部の酒樽を割ってみたが、葡萄酒が溢れ出て来ただけだった。
スターニーは居なかった。
地面に明かりを近づけて見るが、足跡が多すぎて特定できそうにない。スターニーが自分で部屋から出て行ったとは考え辛かった。もし自分で歩いて出たのであれば、ここから一本道でさっきの明るい通路に出て、そのうちナティセルかサニーメリに出会っていることだろう。
これ以上ここを探しても無駄だ。
そう思って、ナティセルは元の部屋へ急いだ。
サニーメリは嘘を吐いている。おそらく、スターニーの居場所も彼女が知っているだろう。
来た道を戻る。
一度は通った道なのだが、逆から見ると初めて来る場所のように感じる。明かりを向けなければ、暗くて自分の両側を覆っているはずの土の壁すらあるのか無いのか分からなくなる。
この道は?
自分の左手に、今自分が通っているのと同じくらいの広さと高さの横穴があった。来る時には気付かなかった。あまりにも暗かった為だろう。
蝋燭をそちらの通路へ差し出して、通路の状態を確認する。
土壁に刺さった蝋燭置きには、綺麗な蝋燭が立ててあった。試しに、それに自分が持っている蝋燭から火を灯してみると、普通に火が付いた。古い物ではなさそうだ。
嫌な臭いだ。
横道の奥から、生臭い風が吹いてくる。腐った何かの臭いだと、ナティセルは思った。
土に囲まれた空間は暗いが、土精霊を操れるナティセルにとっては、さほど怖ろしい場所では無い。
ナティセルは横道へ入った。
行かない方が良いかもしれない。
さすがに、そんな気がしてくる。サニーメリはナティセルの戻りが遅いことを不審に感じ始めた頃だろう。
それに、この先にある物は見て嬉しいもので無い事は確かだ。道を進むうちに、この臭いは肉が腐ったものだと、もう分かっていた。けれど、同時に期待もしてしまう。この先にあるのは、竜の死体ではないか、と。竜と戦った場所からこの横道までならそれ程遠くも無い。死に掛けた竜が最後の力で、こちらへ這って来たのかもしれないのだ。
横道の突き当たりは、少し広くなっていた。嫌な臭いが強く、ナティセルは先ほどからずっと、右手で布切れを口と鼻に当てて居る。
左手に持った蝋燭をゆっくりと動かし、辺りを窺う。
ナティセルの目の高さに、白い布切れが上から垂れ下がっていた。
そのまま、見上げる。
「人だ……」
死人。ナティセルがそのままでは手が届かないくらいの高さから、死体が吊るされて居た。
冷たい水滴が一粒、ナティセルの蝋燭を掲げた手首に落ちた。
黒い液体。違う。血だ。
死体には、左足が無かった。付け根の辺りから切り落とされたようだ。死体の身長は、ナティセルとあまり変わりないように思えた。
蝋燭を動かして死体の顔を見ようとする。動悸が激しい。嫌な予測しかできない。
スターニー……。
青白くなった顔や大きく見開かれた目、歪んだ唇、それらは以前見たスターニーとは異なる。しかし、元は間違いなくスターニーだった。
「なんで付いて来た。俺一人で大丈夫だったのに」
死体を下ろそうと思い、ナティセルは周りを見た。このままでは手が届かないので、踏み台になるものが無いかと思ったのだ。
そこでようやく、広場のもっと奥から聞こえてくる音に気付いた。クチャクチャという、湿った沢山の何かが絡み合う音。
音の方へ歩み寄る。
一歩近付くごとに、音は何倍にも大きくなった。
最初は広場の奥から聞こえていると思った音だが、近付くにつれ、もっと下の方から聞こえていることが分かった。
蝋燭の明かりを、足元がよく見えるように動かす。地面は途中で途切れて、その先に蝋燭の明かりが届かない闇が広がっていた。
地割れでもあったのか、広場の奥は大きな溝になっていたのだ。
音は、その溝の底の方から聞こえている。ナティセルは一旦広場の入口の方へ戻り、廊下の土壁にあった燭台から蝋燭を引き抜いた。
溝の側に戻り、引き抜いた蝋燭に、持っていた蝋燭から火を灯す。
ナティセルは片方の蝋燭を、溝に投げ入れた。
蝋燭は辺りの闇を少しだけ照らしながら落ちていく。
火が消える音がする一瞬の間、クチャクチャという音が消えた。蝋燭の明かりが一瞬だけ照らしたのは、無数の蛇がうねっている様子だった。
また、音が戻る。
塵捨て場。
ここに塵を捨てて、蛇がそれを喰う場所だと、ナティセルは思った。
ここから出なければ。
ナティセルは道を引き返す。
スターニーをこうしたのは、誰だ。竜が居ないのであれば、一体誰がスターニーをこんな目に合わせた。
赤い髪に緑の目の、サニーメリを思い浮かべる。もっと強く疑うべきだった。サニーメリは決して味方ではない。
ナティセルは、走り出した。
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