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在りし日のマネージャー見習いのよしこさん
2004.8.10

2002年の10月8日に亡くなり、本人の意思により献体をしたよしこさん。2004年8月9日献体の任務終了、天国に旅立ちました。
これを機会に『マネージャー見習いのよしこさん』としての母の様子を、少しだけお話させてください。

よしこさんが76歳の時でした。

松見達俊院長のお誘いを受けて、町田の常盤病院で婦長として、55歳からの21年間も働かせて頂いていた母に、引退を進言し、退職後にボケては困るので、次なる仕事を!と思いつき『マネージャー見習いとして、わたしのライブ活動のサポートをしてくれない?日当500円でどう?』と誘った。

以来よしこさんは草村礼子のサポーターとして、それまで以上に強力にPR活動をし、公演会場ではアンケート集め担当で、人気ものになっていました。

1990年脳梗塞でたおれ、右手足が不自由に。3ヶ月ほど車椅子生活をする。
『車椅子じゃ、アンケート集めは無理だわね』のひと言に発奮して懸命のリハビリを開始、半年後には杖をついて社会復帰。やがてその杖も手放して2度目の梗塞で再入院するまで、人なつこい笑顔で活動しました。

1997年、2度目の梗塞で第一級障害と認定されるほどの障害が全身に及び、話す事も歩く事も出来なくなりましたが、笑顔だけは健在でした。

マネージャー見習いになって間もない頃には、ライオンの洗剤“チャーミーグリン”のCM(ほぼ初代の毛糸巻きまきしながら、ブランコに乗っていたお婆ちゃん役)にも、オーデションを受けて出演。
その当時は終演後に『アンケートはこちらで頂きます』とよしこさんが挨拶をすると、一人芝居を演じた草村礼子以上に拍手を受けることもありました。

平成2年芸術祭賞受賞を機に『徹子の部屋』に呼んで頂いた時にも、本物のマネージャーの後ろにちゃんと、付いて来ていました。

そして、よしこさんは黒柳さんに是非にとお願いして、徹子さんとご一緒の記念写真に納まる事にも成功!

それ以後は、何処へ行ってもよしこさん自慢の、この写真をお見せする事をキッカケとして、草村礼子のPRをするのがよしこさんの仕事になっていたようです。
映画「Shall we ダンス?」で助演女優賞を受賞したのを期に再び『徹子の部屋』に出演のチャンスがきた頃には、足元がおぼつかなくはなっていましたが、トコトコと着きました。徹子さんは覚えていてくださって、遅刻してスタジオに着いた母に声を掛けてくださり、電波にものりました。
反響は大きく、母にとりあげられて生まれた人との、何十年ぶりかの交流などに繋がり、『日当500円でも引き受けて良かったでしょう』と、恩に着せた会話をしたことも、想い出となってしまいました。



草村よし子を偲ぶ会無事に終了ました。


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